永濱修|MY LIFE お世話になっている社会に私ができること

エッセイ

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「5周年の宝もの」
永濱 修

生き方を変えようと試みた
自分が変わると全てが変わった

阿部敏之氏、木下正彦氏の両先輩からPROBUSへ入りなさいとお言葉を頂いたのは姫路南プロバスクラブが発足して丁度1年が過ぎたころでした。日ごろテニスを通じて親交がありましたが、まさか私にお声がかかるとは思いもしませんでした。どのようなクラブなのかも全く存じ上げませんでしたが、当時のことを振り返りますと60歳からでないと入れんのやと笑顔で誘われたのは今でも印象に残っています。
さて私は長年仕事一筋で関係する仕事ではもろもろのお役をいただきそれなりに精力的な活動をしてきたつもりでしたが、PROBUSクラブのような活動クラブには初めての経験でした。
話は変わりますが、平成7年1月17日、死者6434人が出た阪神淡路大震災を境にして“生き方を変えねば”と誓いました。あの震災では姫路においても相当な揺れがあり驚いたものでした。自分の身の回りのことばかり気になっていたところ、一つの電話が鳴りました。それは芦屋の姪からの電話でした「おじちゃん!お母さんとお祖母ちゃんが生き埋めになってるんや!助けに来て!」との悲鳴でした。ただ気が動転するばかりでした、しかし、落ちつけ落ちつけと言い聞かせオートバイで極寒の日でしたが取る物もとらず向かいました。
行く先々では怪我をした人、亡くなった人を目の当りにし、長田付近では火柱が上がっている周りで右往左往されている様子が今でも強烈な印象として脳裏に焼き付いています。生き埋めの身内の安否にその人たちに手をさしのべることもできず涙を流しながらガレキの上をひたすら走り続けました。まさに断末魔の様相です。息子の運転するオートバイはガレキを避けて私に追いついては二人乗りを繰り返しながらやっと辿り着いた光景は無残にも二階の屋根の三角が見えるだけ、ああ、もう無駄目だ!息子とその場にへたり込んだことを覚えています。呆然とする近くでは年老いたご夫婦が亡くなられたようすが伺えたのですが成すすべもなくあの時は自分自身生きた屍のようだったと感じています。
しかし、晴天の霹靂です、それは私たちが到着する少し前に地域の方々によって掘り出されていたのです、それも見ず知らずの方々に・・避難先で対面した時は只ただ涙を流すばかりでした。
ありがとう!みなさま!
この時の様子は言葉では言い尽くす事は出来ません。生還はこの上なく嬉しいものですが辛く悲しい出来事でした。
深夜遅く家路に向かう時息子たちと生き方を変えねばと誓い合ったことは今も忘れません。以後数年間は聞くにつれ語るにつれ涙の日々でした。
“生き方を変えねば”それにはどうすれば良いのかと思い続ける日々がつづきました。
私の仕事を通して何かお役に立てないだろうか・・
生まれ育てていただいた地域に対して何かお役に立てないだろうか・・
一人の人間としてお役に立てることは無いのだろうか・・と色々思いをつのらせていました。
そこへ、なぜ?と思うように次々と不思議なことが起こるでは有りませんか・・
その一つは私の時計職人としての能力を活かせる活動でした。震災で全壊した小学校から、壊れて保存していた大時計の修復依頼でした。この学校は当時全壊でしたが激震地域で避難場所となり、ここでも多くの方々が亡くなられ遺体の安置をされ辛い別れが有ったとお聞きしています。この学校の児童も2名亡くなられていました。
よし、どんなに傷んでいても直すぞ・・と
取り組むことが出来ました。また、校長先生より「あなたのその思いを子供に伝えてくれませんか」とご依頼をいただき私の思いを児童に伝える事が出来ました。とても感謝です。これらのことが伝わり形見や想い出の時計の修理修復や講演活動に携わる事ができ、多くの感謝のお手紙やお言葉を頂戴することになりました。
また並行して“ひょうごの匠「キャラバン隊」”技能士としての派遣事業です。兵庫県と兵庫県技能士会が協同して県下の中学校へ出向き生徒たちに体験を通して皮膚感覚から学んで頂く授業です。仕事と社会の関わりを学んでいただき多くの職業の中でみなさまのご両親も社会の一人として頑張っている事を伝える事でもあります。
二つ目は、地域では過疎化を一層強めるような出来事が起こりました。昔、飾磨県庁その後70年間地域医療を担っていた日赤姫路病院に移転問題が起こりました。それに伴い過疎化を防ぐ方法が無いものかと、地域商店街のご用を頂いておりましたので商の立場から、産官学への陳情や話し合いと本当に辛い時期を向かえていました。西国街道の西はしに位置し解体される病院を何とか生かして地域の賑わいを取り戻そうと立ち上がった活動で“歴史と出会えるまちづくり船場城西の会”を立ち上げ熱い仲間たちと汗と涙を流しながら一生懸命でした、しかしその事は成就しませんでした。でも、今は笑顔をキーワードにまちづくりに汗を流す事でいっぱいの生甲斐を与えていただいております。
そして三つ目の、人として何かお役に立てないだろうかに付いても、先輩にお誘いいただきこのPROBUSクラブに入れていただき素晴らしい先輩方の永い経験で培われてこられた貴重な知識と体験を知ること、学ぶこと、と共に次の世代に伝承し社会還元を目的に活動を皆様と共に出来たことは何よりも嬉しいことと感謝をしています。
いま思いますのに、こんなに素晴らしい夢のような活動を願っていたとおりに叶えられるなんて夢と言う他に言葉が浮かんでまいりません。これらの事こそ皆様に助けられているからこそ出来るのだと信じています。









しかし、これらの活動をするのに問題がありました、それは時間を作り出さねば成らなかったことです、如何すればよいのか悩みました。余談ですが私は幼少のおりから22歳離れた厳しい兄の影響で制約が多かったのを悩んでおりましたが、いつしか“いや!自分がこうしたいと思ったらやるのだ”と決め行動をするようになっていました。そのせいか沢山の趣味を持っていました。そうだその趣味の時間を割けばよいではないか!まだそれで足らないなら睡眠時間の短縮をと模索することとなりました。
家族も理解できない様子で難しい時もあり辛く悲しくこれで良いのだろうかと悩むことはしばしば有りました。結果、身体を壊してしまった事もあります。
でもとても不思議なんです・・深夜遅くになっても少しも辛くないし疲れた!という感覚は全く起きてこないのです。
想い出の大時計や形見の時計の修理ご依頼で各都市に出向くことがあります。この時代に生きる職人としてお役に立てるのだと喜んで取り組むことが私の喜びであり、多くの方々からの感謝の言葉と励ましを頂く時、信頼とはこのようにして生まれてくるのではと感じています。
最後になりましたが、PROBUSクラブが5周年を迎えメンバーの一員としてこの過ぎた時を回想いたしましても共に活動をしたこの4年の日々は私の生かされた命でもあり大切な宝物でもございます。
信じて進む道では有りますが、いつも自分自身を検証しながら歩んでいます、盲目に甘んじているのかもしれません、どうぞ先輩のみなさまのご指導を頂きますよう願っています。
願わくは、今からものち共に生きた命を授かることを信じてやみません。
































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